努力する子の育て方

努力に勝る才能無し!努力の才能を育てる教育法、ボルダリングによる育児ハック実践、我が家の超個性的なギフテッド児の生態など

一見バラバラなギフテッドの定義を整理してみる

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「ギフテッド」という概念がいかなるものか、理解しようとして少し調べると、すぐに残念な事実をつきつけられます。それは、ギフテッドという概念には、統一された定義がないということです。

研究が進んでいる米国においても、政府、各州、各学区、各専門機関、各専門家のそれぞれで、異なった定義を用いていたりします。国が違えばその国ごとに、もちろんまた違った定義が存在しています。

この概念について調べ始めた頃、すぐにこの「統一された定義がない」という事実に行き当たり、「定義が不明確な概念について真面目に考えても無駄なのでは?」と、一時的に思考停止していたことが私にもありました。

しかし、あまりにバラバラで混迷しているように見えるギフテッドの定義、少しものの見方を変えてみると、実は結構シンプルに整理できることに気が付きます。ギフテッドの定義について私の理解が進んだきっかけは、ギフテッド教育研究の歴史を貫く、モチベーションの存在に気づいたことでした。

逆になぜギフテッドの定義はこんなに多様なのか

「ギフテッド」の定義というのは、本当にたくさん見つかります。周囲よりも優れた才能を持つ子供、顕著に高い知能を有する者、IQ130以上、120以上、学校の成績の上位1%の子供、非同期的発達を示す子供・・・各国や各研究機関、各学校の資料、研究論文などをあたれば、まったく同じ定義を見つけるのが逆に難しいくらい、その定義は多種多様です

しかし、ギフテッド教育の歴史について調べていて、ふと気が付いたことがありました。ギフテッドの定義はこんなに様々なのに、ギフテッド教育によって育成したいと考えられてきた理想の人物像というものは、歴史的に見ても実はそんなにバリエーションがないように見えるのです。

ギフテッド教育の歴史を紐解けば、そのモチベーションが「傑出した人材の輩出」にあり続けてきたのは明らかです。この傑出した人材とは、すなわち高い能力を備え、特定の分野で革新を生み出せる人材です。優れた人材を社会へ送り出すことは教育の根本的な目標の一つですが、ギフテッド教育のゴールは、中でも特に傑出した人材の育成を目指すという点で、特殊です。

科学技術や文化に歴史上の革新をもたらしてきた「天才」とも称される偉人の分析から、そうした傑出した人物が備える特徴の研究、そして、そうした特徴を備えた人物を見つけ、その特徴を伸ばして世に出すための教育研究が進んできました。それが、20世紀から続くギフテッド教育の本流であったのは、間違いのないことだと思います。

しかし、ギフテッド教育が目指してきたゴールは大きくブレてこなかったにも関わらず、ギフテッドの定義はこれまで明確に定まったことがありません。一体何で・・・と考えていて、頭の中で電球が光るような気付きがありました。

「ギフテッド」の定義には、大きく分けて2種類の、異なる階層のものが混在しているのです。そのために、定義が非常にたくさんあって、一見混乱しているように見えます。しかし、たくさんあるように見えるギフテッドの定義というのは、その定義の役割に注目すると、実はその多くを同一線上にまとめて系統だてることができるのです。

 

 

ギフテッドの理想と現実:理論的定義と現実的定義

世の中で「ギフテッドの定義」と呼ばれるものを注意深く見ていくと、その導入目的が明らかに異なる、2種類のものが混じっていることに気が付きます。まず一つは、「ギフテッドの理論的定義」。これは、「ギフテッドとは何か?」という問いに対する、本質的な回答を目指すものです。

例えばレンズーリ博士の有名な"Three-ring theory"、米国コロラド州のGifted Development Centerが採用している非同期発達(Asynchroneous development)説、そして米国政府の作った定義も、ギフテッドの理論的定義と考えられます。

こうしたギフテッドの理論的定義は、「ギフテッド」がどのような存在か、どのようにその他の集団と異なるかという、その概念の境界の、本質的な規定を目指します。ギフテッドというの概念の抽象性と不明確さにより、この理論的定義の表現は非常に曖昧な、大きな幅をもったものにならざるをえません。

しかし、現実世界でギフテッド教育プログラムを走らせる上では、その曖昧な理論的定義で規定される「ギフテッド」を発見し、集めなければいけません。プログラムの公平性を担保するために、その参加資格には具体性と明確性が求められます。

そこで、プログラム実施のためにギフテッドの理論的定義で規定する集団を集めるためには、現実世界で利用可能な数値尺度や基準による、より具体的なギフテッドの定義が必要になります。それが「ギフテッドの現実的定義」です。

例えば「IQ○○以上」「上位○%の成績の者」といった、ギフテッド教育プログラム等の受け入れ基準を明文化した「ギフテッドの判定基準」が、この「現実的定義」にあたります。こうした判定基準は、それをクリアした集団が「ギフテッド」と認定されることになるため、やはり「ギフテッドの定義」であることに変わりないのです。

ギフテッドに関する議論では、この2種類の定義がしばしば区別なく扱われるため、非常に混乱しているように見えます。しかし実際には、「ギフテッドの理論的定義」に当てはまる子供を発見する方法として、現実的な方法を用いてその理論的定義を解釈し直したものが「ギフテッドの現実的定義」です。

従って、構造としてはギフテッドの理論的定義の下に、その「理論的定義に基づくギフテッド」を現実で判別するための「現実的定義」がぶらさがります。ギフテッドの現実的定義は、理論的定義に依存している二次的な、下位の定義です。

例え同じ理論的定義に基づいていても、その理論的定義に当てはまる子供を現実的に判別する方法論には多様性が生まれ得ます。例えば仮の話として「ギフテッドとは周囲より知的に優れた子供である」という極めてシンプルな理論的定義を考えてみます(あくまで仮定の話です)。

「知的に優れる」という部分をどんな現実的指標を用いて評価し、スクリーニングをするかという方法論、つまり現実的定義には「IQテストを使う」「学業成績を使う」「IQテスト+学業成績」と様々な方法が考えられ、結果たくさんの「ギフテッドの(現実的)定義」が生まれてくる、ということになります。

つまり、世の中に溢れるたくさんのギフテッドの定義は、その多くがギフテッド教育をより成功に導くための、試行錯誤の結果を反映しているだけであり、「ギフテッドとは何か」という根本的な定義問題の混乱を表しているわけではない、と考えられます。

問題意識によって2種類に分類できるギフテッドの理論的定義

とは言え、「ギフテッドとは何か?」という問いへの直接的解答、つまりギフテッドの理論的定義だって、もちろんしっかりとは定まっていません。しかし、この理論的定義は、よく見ていくとその問題意識によって、2種類に大別できてしまいます。

才能教育的視点に基づくギフテッドの理論的定義

ギフテッドの理論的定義の大分類の一つ、それはギフテッドを「将来的に高い能力を身につけ、社会で活躍する特に高いポテンシャルが期待できる子供」とみなす才能教育的視点からの定義です。このギフテッドを「高いポテンシャル」と見る視点からの理論的定義に通底するのは、「傑出した人材を世に出すにはどうすればよいか」という教育上の問題意識です。

具体的な例としては、レンズーリ博士のThree-ring theoryや、米国政府による定義が該当します。また、この才能教育的視点に基づく理論的定義を採用していると考えられる国は多く、米国の他、フランス、ドイツなどの欧州諸国が採用している定義はそのほとんどがこの定義のようです。(各国のギフテッドの定義の違いは、以下の高知大グループの論文に色々紹介されています)

https://ir.kochi-u.ac.jp/dspace/bitstream/10126/5282/1/gaku.62-17.pdf

発達心理学的なギフテッドの理論的定義

もう一つ、全く別の視点からのギフテッドの理論的定義が存在しています。それが、Gifted Development Centerが採用している非同期発達説のような、ギフテッドを才能やポテンシャルという議論から切り離し、発達心理学的特徴によって定義するものです。

発達心理学的視点からの理論的定義では、ギフテッドを特別な心理的ケアと教育上の配慮が必要なスペシャルグループと見做し、その能力的側面には注目しません。この理論的定義に通底するのは、全ての子供に対して個性に沿った十分な教育を施す必要がある、という教育上の問題意識です。

しかし、ギフテッドを才能教育的側面から捉える理論的定義と、発達心理学的側面から捉える理論的定義、2つは違っているように見えて、その定義が示す人物像は、実際のところ非常に重なっている部分が大きいのです。

なぜならば、発達心理学的定義はギフテッドの能力的側面を強調しないだけで、「同年齢の子供よりも顕著に早い知能発達」といった才能・ポテンシャルともみなせる特徴に注目していることに変わりはないからです。

この発達心理学的視点からの理論的定義は、同年齢の児童よりも早い知的発達を見せながらも、発達特性やそれに伴う環境適応の問題で学業成績等の結果が伴わない「アンダーアチーバー」や「2E」と呼ばれるグループに対して、無理なくギフテッド教育のサポートを提供することを可能にしている点で、新しさがあると思います。

しかし、このギフテッドの発達心理学的定義は、才能教育的視点からの定義に比べると比較的新しいものであり、欧米諸国のギフテッド教育の例を見ていくと、こうした発達心理学的視点からのギフテッドの定義を基にしたギフテッド教育プログラムは、少数派のようです。

まとめ

世の中に存在する「ギフテッドの定義」は、一つ一つ独立に見ていると非常に混乱してきます。しかし、教育上の問題意識に端を発する理論的定義、そしてその理論的定義に当てはまるギフテッドを現実世界でスクリーニングするための現実的定義という、問題意識の所在と、問題解決のための一連の流れの中で様々なギフテッドの定義が生みだされるという構造を意識すると、ギフテッドの定義はそこまで混乱しておらず、それほど多くない集団に分類できる、ということがわかります。

しかし、これまで色々とギフテッドについて調べていて思いましたが・・・ギフテッドの定義が定まらない究極的な理由は、正解があるのかよくわからない、もしあったとしてもそこには容易にたどり着けないという、「教育」そのものが抱える問題の困難さに行きつくのではないでしょうか?

そう考えると、ギフテッドという概念の定義をきちんと定めようなんていう話は、土台無理なことなのかもしれないなあなんて、ぼんやり感じてしまいます。