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『鬼滅の刃』をいじめ・パワハラ・毒親への対抗指南書として読み解く(2)

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!ネタバレ注意!
この記事には漫画『鬼滅の刃』、映画『鬼滅の刃 無限列車編』、その他スピンオフ作品の内容や結末に関する記述が多数含まれています。未読・未視聴の方は作品を楽しまれてから本記事を読まれることをお勧めいたします。

また、本記事は『鬼滅の刃』を非常に現実的な視点から読み解いていきますので、『鬼滅の刃』のファンタジーとしての世界観が損なわれる可能性があります。『鬼滅の刃』のファンタジーとしての世界観を大切にしたい方は、ご注意ください。

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本記事シリーズでは、『鬼滅の刃』に見られる、いじめやパワハラ、モラハラ、毒親問題等への対抗策を念頭に置いたと考えられる描写やメッセージを読み解いていきます。

前回の記事では『鬼滅の刃』の鬼が、いじめやパワハラなどの加害者に頻繁に見られる自己愛性人格障害やサイコパスの特徴を非常によく捉えているという点と、原初の鬼、鬼舞辻無惨の自己愛性人格障害様の特徴を解説しました。
 
ここでは引き続きその他の鬼に関しても見ていきつつ、『鬼滅の刃』に表現される「現世の鬼」に関するメッセージを読み解いていきましょう。

続・自己愛性人格障害・境界性人格障害の自己愛病理が投影された鬼たち

上弦の肆(四)半天狗(はんてんぐ)

半天狗は虚言癖があり、盲人を装って他人を騙して生きていました。盲人を世話してくれる恩人からも盗みを働き、それがばれると「儂は悪くない、手が勝手に」と言い訳をし、盗みを咎めた仲間を殺してしまいます。さらにその罪を裁かれるために連行された奉行所でも嘘と自己正当化を繰り返し、刑に処される寸前で鬼になると、奉行を殺してしまいます。

半天狗の血鬼術は、自分が斬られると分身の鬼を生み出して強力な攻撃してくるという厄介なもの。一方で本体は非常に小さく、分身である鬼の心臓に隠れていたり、逃げ回ったりと直接戦うことはせず、常に臆病です。

そして、被害者意識が高く、自分が攻撃されないように相手を非難します。例えば、鬼になった後も何も知らない人間を食ってきた自分を「善良な弱者で可哀想」とし、対する鬼殺隊を「弱きものをいたぶる鬼畜、極悪人めが」などと言いだします。

この半天狗の言動は、自己愛性人格障害の中でも回避性の高い、「過敏型」と呼ばれる人達の特徴を非常によく捉えた描写になっています。過敏型自己愛性人格障害の人は、尊大型の自己愛性人格障害に比べて一見大人しく、控えめに見えます。しかし、尊大な理想の自己像を持っているのは同じであり、それが傷つくことを何よりも恐れ、怯えているのです。

他人の評価に異常に敏感で、望むような称賛が得られない場合は大きく傷つきます。それ故に、自分の失敗を咎められた場合も、認めたり、反省したりすることができません。そして、自分を称賛しない、非難する(=傷つける)相手を逆に非難し、攻撃することで、自分を正当化し守ろうとします。自分が直接非難されることを恐れるため、他人を操って、間接的に攻撃を仕掛けてくることもあります。まさに、半天狗の血鬼術のように。

上弦の陸 獪岳 (かいがく)

善逸の兄弟子であった獪岳は、子供の時から盗みを働いたり、鬼から自分が助かるために世話になっていた寺の子達を鬼に食わせる手引きをしたりと、平気で人を裏切っていました。さらには自分を育て、鍛えてくれた元雷柱の師匠が自分と善逸を同列に扱い、自分を特別扱いしないことに強い不満を抱いて恨み、自らが鬼になったことで師匠が切腹したことを知ると、「爺が苦しんで死んだなら清々するぜ」と言い放ちます。

獪岳もまた、平気で他人を踏み台にして自分が利益を得ようとする極めて自己中心的な性質が描かれていますが、獪岳について特筆すべきは、「理想化と脱価値化」と呼ばれる、自己愛性人格障害ならびに境界性人格障害に特徴的な言動がよく描写されている点です。

獪岳は修業時代、元雷柱の師匠を「先生」と呼び、偉大で特別な存在として扱っていました。師匠を「じいちゃん」と呼んで懐く善逸に向かって「じいちゃんなんて馴れ馴れしく呼ぶんじゃねえ!」「先生は柱だったんだ。鬼殺隊最強の称号を貰った人なんだよ!」「元柱に指南を受けられることなんて滅多にない!」と言うように。

しかし、師匠が自分と善逸を同等に扱い、善逸と二人で雷柱の後継者とされると、今度は師匠を「ジジイ」と呼んで貶めるようになります。この手のひら返しとも呼べる極端な扱いの変遷が、まさに「理想化と脱価値化」のプロセスです。

自己愛性人格障害の人は、「自分は特別な存在である」と根拠無く感じており、自分のそうした尊大な自己観を正当化してくれる相手を求めています。そのため、自分を認めてくれる他人をまず特別な人として扱うこと(理想化)で、「特別な人に認めてもらえる自分は特別である」という論理を働かせて誇大な自己像の強化に努めます。

しかし、自分を認めてくれていた(そう思っていた)人が自分の思い通りの評価をしてくれなくなった時、その価値は急転直下の逆転を見せます。特別な人に認めてもらえないと、「自分が特別な人間だ」という尊大な自己観が傷ついてしまいます。そこで、自分に都合が悪くなった相手は、今度は逆に「人を見る目がない無能」といったように、侮蔑の対象に変わる、これが「脱価値化」です。

境界性人格障害の人は、「自分の思い通りの行動をする人=自分を愛してくれる相手=善」、「自分の思い通りにならない人=自分を傷つける人=悪」、というシンプルで病的な思い込みに囚われています。その結果、同一人物であっても、自分の思い通りに行動している間は理想化の対象となり、一たび思い通りにならなくなると、途端に悪として脱価値化され、攻撃対象となる、という極端な手のひら返しを繰り返し行います。

上弦の壱 黒死牟(こくしぼう)

黒死牟(こくしぼう)は、日の呼吸の創始者であり、歴代の鬼狩りたちの中でも最強という位置づけの継国縁壱(つぐくに よりいち)の双子の兄。能力で兄弟を差別し、格差をつける父親の下で、始めは弟・縁壱よりも秀でた存在として優遇されて育ちます。

しかし、弟・縁壱の類まれなる才能が判明すると、その後は自分自身を常に縁壱と比較し続け、縁一が自分よりも優れていることに強い劣等感を抱き、憎み、自らが特別な存在でないことに不満を抱いて生き続けるなど、現実との間で強い葛藤、劣等感を感じる、自己愛傾向の強い人物として描写されています。

元下弦の陸 響凱(きょうがい)

「鼓屋敷」の主として血鬼術で炭治郎を苦しめた鬼、響凱(きょうがい)は、自分の書いた小説や、趣味にしていた鼓が他人から評価されないことを不当に感じ、怒りを感じていました。そして鬼になり、自分を評価しない相手を殺してしまいます。

自分の作品が評価されないのは、誰にとっても悲しい出来事です。しかし、望んだ評価が得られないから相手を傷つける、殺すというのは、自己愛性人格障害の人が自らの価値への脅威を感じた時に見せる攻撃性、自己愛性憤怒と呼ばれる現象そのものと言えます。

 

 

サイコパスの特徴を投影された鬼たち

サイコパス・反社会性人格障害と呼ばれる人達は、行動レベルで見ると自己愛性人格障害の人とよく似ています。利己的で、平気で嘘をつき、責任転嫁し、他人を操作し、自分のために利用(搾取)しようとします。しかし、その心に抱える歪みには違いがあります。

最も大きな違いは、罪悪感の有無。自己愛性人格障害の人達は、一応罪悪感というものを持っています。しかし、罪悪感を感じる局面、自分が失敗したり、他人に悪さをしたことを認めると誇大な自己像が傷つくので、それを必死に認めない努力をする結果が、自己愛性人格障害の人の嘘や、責任転嫁、そしてそれにまつわる対人操作行動であると考えられます。

一方で、サイコパスの人達には良心がありません。この良心(罪悪感)の欠如こそがサイコパスを特徴づけ、またその問題行動の根本原因であると考えられています。つまり、サイコパスは、他人を傷つけたり騙したりしても、何も感じない人達なのです。

反社会性パーソナリティ障害(ASPD) - 10. 心の健康問題 - MSDマニュアル家庭版

上弦の弐 童磨(どうま)

童磨は明朗で共感深い人物を表面的に演じているものの、明らかに罪悪感が欠如し、感情に乏しいサイコパスとして描写されています。母親が父親を刺殺し、服毒自殺した直後ですら、「部屋を汚さないで欲しいなあ」とか「血の匂いが臭くて、早く換気しなきゃ」と考えるその感情の乏しさは、全くもって異常の一言。

童磨は人間であった頃から一貫して罪悪感や共感性がなく、信仰心など持っていないにも関わらず宗教団体の教祖として信者を騙してきました。そして鬼になった後は「自分の食った人間は、自分と共に永遠の時を生きて救済される」といった調子で適当な理由をつけながら信者を食い続けていましたが、記憶力をはじめ高い知能を持ち、狡猾です。

実際のサイコパスな人達が皆童磨のように高い認知能力を持っているわけではありませんが、罪悪感と共感性が欠如した人は一線を超えて色々なことをやってくるので注意が必要です。また童磨のように良い人そうに見え、高い認知能力を持つ、尻尾を出しずらいタイプのサイコパスの場合は、特に危険性が高い存在です。

下弦の壱 魘夢(えんむ)

魘夢も良心の欠如したサイコパスとして描写されている鬼です。人間であった時から医者を騙って催眠治療を行い、患者に治ったと思わせておいて、実は治っていないと暴露する、というような下種としか言いようがないことをやっており、鬼になった後も「他人の不幸を見るのが大好き」「不幸に打ちひしがれて苦しんでもがいているのを眺めていると楽しい」とブレません。

魘夢は他人の不幸を見るのが大好きというあたり、良心と共感性が欠如したサイコパス性に加えて、加虐指向性、サディスト傾向も併せ持つ者として描かれています。

その他の鬼たちについて

見てきたように、エピソードが掘り下げられている十二鬼月らの強い鬼たちの多くは、自己愛病理に端を発する人格障害とサイコパスの特徴が非常によく見て取れます。しかし、全ての鬼がそうなのかと言えば、それはそうでもなさそうです。

例えば那田蜘蛛山(なたぐもやま)で鬼殺隊を苦しめた元下弦の伍・累(るい)は生まれつき身体が弱く、無惨の「体を強くしてやろうか」という誘いに乗せられるような形で鬼になってしまった感じで、自己愛性人格障害に騙されて加担させられてしまった人のポジションに近いものがあります。

上弦の参・猗窩座(あかざ)は子供の頃から犯罪行為を繰り返してきましたが、それは自分のためではなく父親のためで、本人も罪悪感に苦しんできた様子が描写されています。その後も愛する人達を殺された結果大量殺人を犯してしまいますが、恐らく鬼にされずに記憶を保っていたら、自分の罪と正面から向きあえたのではないでしょうか。

元上弦の伍・玉壺(ぎょっこ)は猟奇的な趣味と性格の持ち主で、嫉妬深い様子が伺えますが、同時に登場した半天狗に比べてキャラとしてあまり掘り下げられなかった印象です。

 

 

悪いのはその存在ではなく、行為であるというメッセージ

『鬼滅の刃』の鬼を自己愛性人格障害やサイコパスのメタファーとして捉えた時、この作品がとても注意深いと感じるのは、「悪いのはあくまで人を食ったり、傷つけたりするその行為にある」という議論を、禰豆子(ねずこ)や珠代、愈史郎(ゆしろう)など人を食わず、傷つけず、鬼殺隊の味方をする鬼たちの存在を通じて繰り返している点です。

自尊心を守ろうとする心理作用は、他人から愛されたい、認められたいという欲求は、自己愛性人格障害や境界性人格障害の人だけでなく、人間だれしもが持つものです。また、自尊心を守ろうとする働きが強い場合でも、それが主に不安傾向と回避行動に結びつき、他人への攻撃を行わない性質の人もいます。

また、他人への共感性がなく、感情が希薄なサイコパス性の強い人であっても、必ず犯罪に手を染めたり、嘘をついて他人から搾取するとは限りません。研究の結果からは実際のところ、サイコパスの多くは社会に適応し、問題を起こさず生きていると考えられています。

さらに、色々な理由があっていじめやパワハラの加害者となった人達も、もう全く手遅れで矯正の見込みがない、というわけではありません。過ちを認め、それを社会のために生かすことができるようになる人達も間違いなく存在しています。

珠代は鬼として自分の家族を食ってしまった経験があり、一時は無惨と行動を共にしていましたが、その後無惨の呪いを自力で解除し、無惨を倒すための薬を研究開発し、最終的な無惨打倒に大きく貢献しました。

鬼を憎み、強い復讐心に駆られる蟲柱・胡蝶しのぶが、鬼を人に戻す薬を開発した珠代を評して「”あの人”は・・・本当にすごい人です。尊敬します」と言う。鬼に家族を殺された者が多く、鬼を滅ぼすために戦う鬼殺隊士達が禰豆子のことを認める、こうした関係性を通じての表現。

そして、鱗滝さんの禰豆子に対する「人を傷つける鬼を許すな!」という直接的なメッセージなどには「本質的に大事なのはその存在よりも行為である」という考え方、そして戦うべきはどういう存在なのかがハッキリと示されていると思います。

我々はどのように「現世の鬼」と戦うのか

鬼滅世界の鬼が現代社会の抱えるいじめやパワハラ、毒親といった問題を引き起こす存在のメタファーだとして、現実世界には日輪刀などなく、鬼の首を日輪刀ではねて問題解決などできないではないか、そう感じる方もいることでしょう。

それは全くその通り。でも、だからこそ、『鬼滅の刃』は現実世界の鬼たちとどう戦うか、そのヒントを作品の中に散りばめてくれていると感じます。

以降の記事では、『鬼滅の刃』に見て取れる、いじめやパワハラ等の問題、その加害者に対抗していくためのヒントを読み解いていきたいと思います。

(3)に続きます。