努力する子の育て方

努力に勝る才能無し!努力の才能を育てる教育法、ボルダリングによる育児ハック実践、我が家の超個性的なギフテッド児の生態など

だんだんADHDっぽくなくなってきたうちの子

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「ねえ、お父さん」

時計を見ると朝の6時を少し回ったところ。本来ならばもう少し寝ていられるという時間に起こされて、ほとんどうめき声のような私の返事とは対照的な、元気な声でケイは続けます。

「僕、これからは朝まず勉強を終わらせることにした。Z会終わったから丸つけして?次は英語をやるからiPadのパスワードお願い」

こんな平日の早朝からどうしてこれほどやる気に満ち溢れているのか・・・意気揚々とチャレンジイングリッシュにとりかかるケイの横で、私は目をしょぼしょぼさせながら問題集の丸つけをしたのでした・・・。

この日から1か月以上経った今も、ケイは朝の内にその日の分の通信教材と英語学習へ取りかかる日課を続けています。朝勉強したらいいなんて、私達がそそのかしたことは一度もありません。ケイが朝から活動的なのは今に始まったことではなく、以前から親より早く起きて遊んだり読書をしているのはわりと普通のことでした。しかし、それに加えて朝から勉強までし始めるとは。

このエピソードをあまり知らない人に話せば「すごく意欲的で真面目なお子さんですね」と褒めてもらえるのかなと思います。そして、この子がADHDの診断をもらっていると言ったら、多くの人に驚いてもらえるだろうと思います。

しかし、最近ケイのことを見ていて強く実感することがあります。それは、こうしたケイの見上げた行動の根幹は、およそ間違いなく、私達も含めた周囲が彼の問題点として認識してきた、多動とつながっているということです。

溢れるエネルギーという共通の根

ケイの「じっとしていられない」という多動の特徴が顕著になったのは2歳の半ばごろからでした。リトミックの時間、周囲の子が大人しく親の膝に座る中、一人だけ部屋を笑顔で駆け回っていたのがケイでした。

その後のケイは常に「すごく活発」と言われ続けてきました。走り回り、飛び跳ね、喋り続ける。幼稚園時代はすぐに周囲の子供を先導して走り回り大人しくしていないので、担任の先生に目をつけられていた時期もありました。幼稚園時代の集合写真を見返すと、大体先生の隣や、抱きかかえられた状態で写っています。なぜ課題を与えられた時は座っていられるのか、みんな不思議に思っていたと思います。

「じっとさせるより全力疾走させる方が簡単」というのが、ケイの場合なんの誇張もない現実です。「ADHDなのかな」とはずっと考えていましたし、実際に小1の時にADHD(+アスペルガー症候群)の診断ももらいました。しかし、最近のケイを見ていると、こうした幼少期のケイの多動の原因が、とてもよく理解できる気がしています。小さな頃は、エネルギー発散法の選択肢が無かったのだと。

ケイは今でも基本的に走り回っていますし、じっとしてはいません。常に何かをやっていないと気が済まない性質には、基本的に変わりはありません。先日大きな公園での催しに参加した時も「ちょっと向こうで走ってくるね!」といって特に理由もなく芝生を駆け回っていました。外出間際に「あと2分後に出かけるよ」と言ったら「じゃあそれまで本読んでていい?」と返ってきてあきれたのも、つい最近のことです。

ほんのわずかな時間でも、何もしないことに耐えられない、その寸暇の惜しみ具合は、ちょっと一般的な感覚からは外れています(これは以前うちの子のADHD脳の特徴として考察してきましたので、興味のある方は以下の記事をご覧ください)。

 


幼稚園時代と今の大きな違いは、彼がその暇な時間、持て余したエネルギーの発散手段として「動き回る」「話をする」以外の方法を手に入れたということです。例えば読書、そして勉強。持て余したエネルギーの発散法が、走る動くなどの単純で原始的な形だけでなく、周囲の人間にも理解しやすい形をとることが多くなってきた、というのが違いなのだと感じています。

ケイの多動は収まったのではなく、色んな形をとるようになっただけ。そして、その原動力は、今も変わらず彼の中にあるのです。冒頭に紹介した朝勉も、ケイの場合は勉強のために朝頑張って起きるというのではなく、目が覚めてしまった朝の時間をどう使うかの選択肢として勉強を選んでいるだけです(もちろん勉強を選ぶというのは大変感心なことです)。

今だって、もしも朝に読書と勉強を禁止したら、他のやることを探してドタドタ騒ぎ始めるのは目に見えています。もう一度寝ようなんて、ケイにはきっと考えられないのです(もちろんそんな不毛な実験はしませんが・・・)。

 

 

持って生まれたエネルギー量の多寡

学校で持久走大会に向けた練習が始まり、ケイが言っていました。

「走るって最高だよね!走るのが嫌いな人なんているはずないよ!」

私は走るのがあらゆる運動の中でおそらく一番嫌いです。疲れるからです。持久走が楽しいなんて生まれてこの方一度も思ったことはありません。体育が持久走だったなら、後の時間は疲れて何にもやる気が起こりませんでした。朝の勉強だってそう。今より元気だった小学生時分でも、朝は起きるのに精いっぱいで、勉強する余裕なんてちっともありませんでした。

でもケイは朝自主的に勉強して学校に行き、長い休み時間は鬼ごっこで走り回り、持久走をやった後に授業を受けて、放課後はサッカースクールに行き、帰ってきて宿題を済ませて、ゲームをして読書をして、それ以外の時間は弟とふざけあったり、ずっと私達に喋りかけてきたりしています。疲れた様子なんてまったく見せずに。

ギフテッドとADHD

持ち前のエネルギー量が普通と全く違って多ければ、それは人より多く動くことになるよねという、言われてみれば当たり前、でもケイが小さな頃は考えもしなかったことが、最近になってやっと現実のこととして腑に落ちるようになりました。

ケイの幼少期、私達がその考えに辿り着かなかったのは、生まれながらにすごいエネルギーを持った人がいるということを知らず、自分の子供がそうであるという可能性を考えなかったから、ということに尽きます。

ギフテッドという概念を知ってから、「ケイはADHDでは(そしてアスペルガーでも)ないのかも」という可能性をずっと考えてきていますが、最近のケイの様子を見ていて、その考えはより強い確信へと変わりつつあります。

米国のギフテッド研究の世界では、その多動性や衝動性、感覚、感情の過敏さ、激しさといった特徴からギフテッドがADHDなどの発達障害や精神疾患と誤解されやすいという点は、昔から指摘されてきました。

日本ではギフテッドという概念は未だ流通していません。そんな中、ギフテッドと発達障害/精神疾患の誤診問題を指摘したウェブ博士の著書の日本語版、「ギフティッド その誤診と重複診断: 心理・医療・教育の現場から」が最近上梓されたのは、大変喜ばしいことです。ギフテッドという概念が全く認識されていない日本の児童精神医療の現場にも、一石を投じてくれるのではないかと期待しています。


もしタイムトンネルがあって、5年前、走り回り活発過ぎるケイに手を焼いていた頃の自分達に何か届けられるとしたら、送ってあげたい一冊です。「ケイは5年後、朝自分から机に向かう子になってるよ」というメモを添えて。