努力する子の育て方

努力に勝る才能無し!努力の才能を育てる教育法、ボルダリングによる育児ハック実践、我が家の超個性的なギフテッド児の生態など

うちのギフテッド児にゲームを与えた結果わかったこと

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ゲームをどうするか・・・長男ケイがまだゲームという言葉を知らない頃から、この問題は既に我が家の懸案事項でした。「子供がゲームばかりで心配」というのは、とてもよく聞く親の悩みです。そして、ゲームとの適切な距離感を保つことが子供にとって結構難しいというのは、私達にも身に覚えのあることでした。

だからケイがいつゲームを欲しがり始めるか、毎年クリスマスと誕生日には、ドキドキしていました。ゲームを与えるならば、それ相応の対策をしなければいけないというプレッシャーを感じていたのです。そして去年、ケイが小学一年生のクリスマス、ついにその時がやってきてしまいました。

「絶対にゲームが欲しい」というケイの強い気持ち

実のところ、ケイがゲームを意識し始めたのは幼稚園の年長の頃からでした。テレビでゲームのCMを見て、「僕もこれやりたい」と興味を示したのです。そして瞬く間に「にんてんどーすいっち」という言葉を覚え、「僕もSwitch欲しい、サンタさんにもらう」と言いだしました。

「ついに来たか・・・」と半ば諦めて、Switchを買うつもりになっていたんですけど、なんとこの時は、ケイの欲しいものが途中で別のものに変わるサプライズがありました。私は拍子抜けして、思わず「えっそうなの?」と言ってしまいましたけど、実際のところとてもほっとしたのです。

しかし・・・ケイが小学生になると、ケイのゲームへの思いが確固たるものになっていくのをハッキリ感じました。おそらく学校の友達との会話の中にもゲームが登場し始めたのでしょう。「今年はSwitchをもらう」というケイのアピールは、まだクリスマスには早すぎる、8月ごろから始まりました。

連日うだるような猛暑日のさなか「12月が楽しみ!あと4か月でクリスマスだよ!」などとおかしなことを言っているケイを見ていて、前年のようなミラクルが起こらないであろうことは、もはや火を見るよりも明らかでした。

子供にゲームを与えることへの逡巡

なんでケイにゲームを与えることをそんなに心配していたのか、それには私も妻も子供の時に結構なゲーマーであったことが影響しています。

特に私の方は子供の頃、かなり重度のゲーム依存でした。小学生の時は親の下手なゲーム時間管理に付け込んで、わりと好き勝手ゲームをしていました。中学生の時は学校のテストさえできていれば文句がつかないのを良い事にゲーム三昧で、休日は一日中ゲームをやっていたような気がします。

ゲームが何の役にも立たないなんて言うつもりはありません。ゲームから学べることはたくさんあり、今でもゲームから得た知識が役にたつ場面というのは実際にあります。でもやっぱり、ゲームが生活の中心になってしまうのは良くない。自分のことを振り返っても、子供のころあんなにゲームばかりしていたのは失敗だった、もっと他に色々なことをしておけばよかったと、やはり思うのです。

ゲームというのは、誰にでも手軽に、そして持続的に娯楽性が得られるように、工夫をこらして作られている代物です。ユーザーを夢中にさせるように、ある意味中毒性を追及されているものなので、依存状態になってしまう危険性もまた高いのです。

子供の判断力は未熟です。特に、先のことを考えて目先の欲求を我慢するというような判断は、子供にはとても難しいことです(大人にだって難しいですからね!)。なので、まだ判断力の未熟な子供にゲームという中毒性の高いものを与えるというのは、泳げない子供をわざわざ深みに連れていくようなものではないかと、恐れていました。

特にケイは、何かに集中すると切り替えられない特性があります。ゲームに夢中になったら一体どんな風になるやら、心配が募るばかりでした。

 

 

ゲームを与えないのはもっと怖いという悩み

それならばゲームなんていっそ最初から与えなければ良い、という考え方もあると思います。でも、私達はこの「最初から与えない」という方法は、やらないことに決めていました。親が子供の興味や趣味を正当性なく強く抑圧するのは、育児の上では非常に危険な対応だと考えていたからです。

そもそもゲームは別に犯罪行為ではなく、みんなが普通に楽しんでいる娯楽です。中毒性が高いとはいえ、ゲームをした子供がみんな依存状態になってしまうわけではありません。それなのに、「依存するかもしれないから」という心配を根拠に「やってはいけない」と最初から禁止してしまうのは、単純にケイを自分の都合の良い想像の枠にハメているだけの話です。

そもそも「リスクがあるから」を根拠に始める前から何かを禁止するならば、同じ理屈で大抵のアクティビティを禁止できてしまいます。では何でゲームは禁止で、読書は良いのか?本が大好きなのは良いことで、ゲームが大好きなのは悪いことなのか?と問われたら、ダブルスタンダードに陥らない解答というのは、なかなか見つかりません。怖いのは依存であって、ゲームそのものではないのです。

さらに、ゲーム自体は親の自分たちもやってきたことなのだから、その点余計にアンフェアです。自分たちのことは棚に上げて、正当性もなく子供の興味関心、趣味を否定するのはまさにダブルスタンダードで、親子の信頼関係を傷つけ、子供の意欲や自発性に悪影響を及ぼす可能性が高いと思われました。

そして、娯楽性、依存性が高いものから隔絶して育てると、結果的にその娯楽性、依存性との適切なつき合い方というものが、いつまでたっても身につきません。ゲームがどんなものかはただ想像するだけではわからず、その娯楽性と依存性は多くの場合想像以上なのです。それに関して十分な判断能力を身につけるためには、ゲームを身近に置く中での実体験を通じた学習がやはり必要になります。

子供のころにあれだけゲームばかりしていた私も、大学に入るころにはすっかりゲームをしなくなっていきました。そこにはやはり、ゲームばかりしてきたことへの反省、時間を無駄にしてきたという思いがありました。

もしもゲームを禁止されて育ち、一人暮らしをした時に初めてゲームの自由を得たという境遇であったとしたら、私は今でもゲームとの適切な距離感がつかめずに、子供の相手をせずにゲームばかりやっている親になっていた可能性もあったかもしれない。自分の子供の頃のゲーム依存ぶりを思いだすと、それはそんなに突飛な想像ではないように感じられます。

そんな風に、親子の信頼関係を損ねたり、依存の問題を将来さらに深刻化させるリスクが考えられる「与えない」という選択肢を除くならば、ケイがゲームに強い興味を示してしまった場合の対応は非常に限られます。ゲームを与えた上で、しっかりと判断能力を育てていくしかない。とは言え、実際それが上手くいくかは、やってみないとわかりません。だから非常に不安でした。

小1のクリスマス、運命の時

クリスマスの朝、ずいぶん早起きしてSwitchの箱を見つけたケイは、予想通りの大騒ぎでした。早くやりたい!マリオやりたい!そんなケイを落ち着かせて、一番最初にやったことはSwitchの利用制限機能、「みまもりSwitch」の設定と、ケイへのゲームに関する我が家のルール説明です。

ゲームは一日一時間。毎日一時間ゲームができるが、宿題や勉強などやる必要があることをきちんと終わらせた上で、余った時間を使ってプレイすること。約束が守れなかったら、守れなかった次の日はゲームができない。

そして、一番気を付けて説明したのは、「ゲームは宿題や勉強、お手伝いなどへのご褒美では決してない」ということです。ゲームへの高いモチベーションを勉強を進める原動力にするというのはよく聞く戦略ですけど、そもそも自発的な意欲をもとからもっているケイの場合は、そんなことをしたら逆効果だと思っての方針でした。

「ゲームをするために何かをやる」という物の考え方、ゲームを中心とした物の考え方を、ケイには微塵も持って欲しくなかったのです。

ゲームをめぐるその後の紆余曲折

そんなこんなで、家にゲームが来てからそろそろ半年になります。その後どんなことがあったかというと・・・ケイはものの見事にゲームにどハマりし、最初はもう家に帰ってくるとゲームの話ばかりしている有様でした。

学校に行く前にゲームがやりたくて5時起きで勉強にとりかかるケイを見た時には、少々ゾッとしました。わかっていたこととは言え、ゲームが人を惹き付ける力は、これほどのものかと。

しかし、ゲームへの依存対策として決めたルールの運用は、思いのほか上手くいったと思います。最初の1,2か月は結構大変で、ケイが1時間過ぎても自分でゲームを止められなかったり、「この勉強したらもっとゲームしていい?」みたいな勘違いした発言が飛び出すことも何度もありました。

でも「自分でルールが守れない人間はゲームはしてはならない」「ゲームと勉強の間に関係なんて一切ない」そんなことを口酸っぱく言い続けるうちに、我が家のゲームに対する考え方はケイに浸透していったようです。

最近は時間がくると自分できちんとゲームを終われるようになり、ゲームの時間を伸ばすために何かやろうとするというような言動もなくなりました。やはり最初にしっかりルールを考えておいて、途中で変えたり妥協しないで運用できたのが良かったかなと思います。

 

 

元ゲーム依存少年には想像もつかなかったこと

そんな風に、ゲームはケイの日常になっていきました。まあしっかりルールが根付いて安心してはいたのですが、日々ゲームにご執心なケイを見ていて、「やっぱりゲームが一番楽しいってなっちゃうんだなあ」と内心残念に思っていました。ゲームの強大な力にはやはり抗えないのか、と。

しかし・・・ケイの大好きな「サバイバル」シリーズを含めて、本がどっさり届いた日のことです(安く買える機会があって、ケイの本だけで10冊くらい注文しました)。届いた本の山を目の前にしたケイが突然「僕今日からしばらくゲームしない」と言いだしたのです。聞き間違いかと思って確認すると、「本に集中したいから、読み終わるまでゲームしない」と。そしてその言葉通り、ケイはその後3日間全くゲームをせずに、本の虫になったのでした。

ケイのゲームへのハマりようは、それはもう目に見えてすごかったのです。でも、ケイにとって本の魅力、読書に感じる面白さは、その夢中になれるゲームすらあっさり止められるほどのものだった。純粋に、不思議でした。そこでケイが感じている「面白さ、楽しさ」は、いったいどんなレベルなんだろう?

ゲーム中毒少年だった私には、大好きなゲームを止めてまで没頭したくなるほどの本に対する情熱というのは、もはや上手く想像できませんでした。本というものが、ケイには本当に本当に魅力的で、光り輝いて見えているに違いないと感じられました。

ケイの感じる本の世界には、私の知らない輝きがあるのだ。そう実感した時、ケイのことが本気で羨ましく思いました。もしもケイになって本を読んだら、一体どんな風に感じられるのだろう?体験してみたい。

そういえば、ケイを見ていて同じような疑問を持った子がいたことを、妻が漫画に描いていました。やっぱり、ケイの本に対する感覚というのは、普通とはちょっと違うんでしょうね。

wherewillyou.hatenablog.com

ケイは私とはやっぱり違うということ

ゲーム以上に本が好きということならば、今後ゲームの時間制限を次第に緩和していったとしても、おそらくケイがゲーム依存に陥いったり、ゲームばかりやっている子になる可能性は低いと感じました。まあ少なくとも、私よりは安心そうです。

そして、これで何度目の反省になるかわかりませんが・・・やっぱり自分の想像の枠が、ケイに対してちょっと狭すぎるということを痛感します。ケイがゲームに熱中するというのは予想通りでしたが、それを凌駕する読書への熱量を持っているというのは、まったく想像の範囲外でした。

ケイと私は前提とする感覚や認知能力というものが、あまりに大きく違っていることがある。それはわかっているけれど、「どう違うか」という部分までは中々想像が及びません。だから毎度のようにケイには驚かされてばかりです。

我が家にゲームがきてから、ケイと一緒にゲームをすることも増えました。やっぱりゲームは面白いんですけど、もう最近はゲームの中身より、ゲームをプレイしているケイの頭の中で、何が起こっているかということの方が気になってしまいます。