努力する子の育て方

努力に勝る才能無し!努力の才能を育てる教育法、ボルダリングによる育児ハック実践、我が家の超個性的なギフテッド児の生態など

「発達障害ではなくギフテッド」そう考える大切な意味 (2/2)

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この記事は後半部分になります。未読の方は、ぜひ前半の記事からお読みください。

 

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自分たちの悩みとぴったり重なったギフテッドの社会不適応問題

ギフテッドという概念を初めて身近に意識したのは、WISC-IVでケイがマークした高スコアの意味を調べていた時です。「IQ130以上は、ギフテッドの可能性がある」という、色んなサイトで繰り返し目にする記述が気になり調べを進めると、各所で紹介されている「ギフテッドの特徴」は、どれもケイに驚くほど当てはまったのでした。

しかし、ギフテッドについてリサーチを進める中で最も目をひいたのは「高い能力、ユニークな能力を持つが故に、同世代のコミュニティに上手く適応できない」という、ギフテッド児がしばしば抱える社会不適応の問題でした。それを見た時、直感したのです「ここに、私達の悩みへの答えがきっとある!」と。ギフテッドの社会不適応の引き金となる高い能力は、凹凸分離できない特性と考えられるからです。

ギフテッド教育においては、顕著な才能の存在が同世代コミュニティでの社会不適応を引き起こす可能性があり、その顕著な才能を伸ばすためには、身を置く環境を変える必要があるというのが、基本的な認識です。つまり、周囲と違う顕著な才能を示す特性が原因で「普通の学校」に溶け込めないのは「よくあること」であり、不適応自体が障害だとはみなされません。

才能を伸ばすために、一般的な学校環境への適応は無用と切り捨てるギフテッド教育のスタンスは、私をはっとさせました。確かに、普通の小学校に上手く適応できたところで、人生何になるというんだろう?

学校での適応、社会化はもちろん大切なことです。しかし、それが一番大切なことかといったら、きっと違います。特に小学校、中学校なんて、今振り返ってみればとても理解に苦しむような、よくわからないルールにまみれた非常にローカルな「社会」なのです。

小学校・中学校で適応できればその後も安泰というわけでは全くないし、逆に小・中学校で一時的に上手く適応できず不登校になっても、その後社会で上手くやっていけている人は世の中にたくさんいます。

自分のことを振り返っても、小・中学校の時(地元の公立でした)の友達とのその後のつき合いなんて皆無だし、一生懸命絞り出そうとしても、小・中学校で学んで良かったと感じることなんて、思い出せません。

学校への適応は大事。でも、そう明言できるのは、適応によって失われるものがない場合の話です。明らかに人並み外れたケイの特性の才能的側面、将来的ポテンシャルと天秤にかけたなら、小学校に適応できるかどうかなんて、些細な問題なのでは?仮にその才能面まで抑圧して小学校に適応させたとして、ケイの人生に本当にメリットがあるだろうか?そんな風にして私達は「普通の子供」を育てたいの?

ケイが学校で上手くやっていけるなら、もちろんそれにこしたことはありません。でも、もしケイの才能が学校への不適応に結びついたなら、ケイを無理に学校に適応させるのは得策ではない。私達がすべきは、ケイが適応できる環境を作ったり、見つけたりする努力なのだ。ギフテッドという概念の理解を通じて、私達は長年悩んできたケイの凹凸二面性を持つ特性への対応に、心構えを持つことができました。

 

 

将来を気にする「ギフテッド」今を気にする「発達障害」

ギフテッドという概念の中で、一番の関心事、優先課題は子供の将来性、将来的な活躍です。従って、ギフテッド児に関して「今」起こっている不適応の問題は、その原因が才能であれば、子供の問題点、障害だとはみなされません。それは子供の顕著な才能を伸ばすために不都合な、環境面での問題として認識され、解消が図られます。子供の将来性を守るために、今起こっている不適応は環境を変えて取り除く。それがギフテッド教育の価値観です。

この価値観に触れた時、はっきりと理解できました。私達がこれまで抱えてきた、ケイの特性の凹凸二面性への葛藤は、ケイの「今」と「将来」どちらを重んじるかという葛藤であったと。そして私達は、やはり「今」を気にしすぎていて、「将来」にはそれほど目を向けられていなかった。

発達障害の診断は「今所属する社会組織で問題を抱えているか」という点が大きな根拠になります。すなわち、発達障害というのは「今現在」の状態に強くフォーカスする概念です。その診断に、その子供が持つポテンシャルが、この先どのように発揮され得るかという、将来を考える視点はほとんど入ってきません。

学校に適応するのが当たり前であり、適応できないのは異常である、障害である。そういう考え方を、私達はいつの間にか無批判に受け入れていたのです。学校に適応できない(ように見える)原因や、適応することによるメリットデメリット、そういうものを考える視点を持たないままに。ギフテッドという概念のない社会で、発達障害という概念を強く意識するあまり、子供の将来に関する私達の想像力もまた、うまく発達してこなかったのだと感じました。

「うちの子はギフテッド」と考える理由

そんな風に、わかっているつもりでも・・・私自身いまだに、ケイに対して「学校で目立たず普通にして欲しい」と考えてしまう瞬間があります。「学校に適応できないのは異常、障害」という浅慮な思い込みが、ふとした拍子に頭をもたげてしまうのです。おそらくこのブログの過去記事を読み返しても、「ケイが学校で適応できること」を優先しているなと感じられる部分が、ちらほら見られるのではないかと思います。

学校・社会に子供が合わせることを無条件に是とする文化に育ち、また発達障害という、子供の学校への適応困難を一方的に子供の問題とする概念が浸透した中で子育てをしてきた私に、その価値観は、あまりに強く染みついているなと感じます。ギフテッドという概念を知ってまだ半年余り、その染みついた価値観の上書きは、まだまだ途上です。

これまで、幸いにして、ケイの学校適応にはそこまで問題が起きていません。しかし、1年生の間の様子を見ていても、これから学年が進んでいく間にお世話になる先生やクラスメイトとの相性如何で、ケイの特性や能力に端を発して、不適応の問題が起こってしまう可能性はやはりあるのではないかと危惧しています。

実際に問題が起こった時、その時の問題にとらわれて近視眼的になり、子供の将来という一番大切なことを見失わないように。ケイを学校に適応させようと必死になるあまり、判断を間違えてその才能を潰すような対応をしてしまわないように。いつも繰り返し言い聞かせて、肝に銘じておくのです。

「うちの子は、ギフテッド」