ギフテッドとはなんぞや、という疑問をお持ちの方にはぜひ読んで頂きたいと感じる素晴らしい記事に出会いましたので、勝手に紹介させて頂きます(この記事を教えて頂いた方、どうもありがとうございました)。
日本と米国のギフテッド教育事情をご自身の子育てを通じて両方肌身で感じてきたのみならず、自ら大学院でギフテッド教育を学問として学ぶMai C.さんにしか書きえない、貴重な記事だと思いました。
これだけのボリュームのものを、引っかからずに読ませる文章の流れと、そしてバランス感覚がまた素晴らしい。もう5回くらい読み返してしまいましたが、内容的にも、文章的にも、両面から大変勉強になりました。
「改めて”ギフテッド”とは。」を読んで考えさせられたこと
Mai C.さんの「改めて”ギフテッド”とは。」は私にとって、ギフテッドという概念について改めて色々なことを考える刺激となりました。ここには触発されて考えたことの一部を、まとまらないながらも書いておきたいと思います。
ギフテッドという概念を正しく理解するのはやはり大切
Mai C.さんの「改めて”ギフテッド”とは。」の趣旨は、ギフテッドという概念を理解する上で「能力が同世代に比べて抜けて高い」という長年の研究証拠を伴う共通認識を蔑ろにするのは良い結果を生まないという問題提起であると理解しました。これはまったくその通りだと思います。
ギフテッドへのサービスやサポートがほぼない今の日本では、ギフテッドという概念を、子供や自分を理解するための枠組み(フレームワーク)として使っている人が非常に多いと思います。かくいう我が家もその通りで、我が家にとっても結局のところ、ギフテッドという概念の最大の価値は、子供を理解するための有効なフレームワークとしての価値でした。
しかし、ギフテッドの場合、発達障害であったり、2Eといった表面的に良く似た/重なるフレームワークが存在しています。つまり、こうしたフレームワークの選択ミスは、結局子供や自分が抱える不適応の原因の誤認と、対策の選択ミスにつながってしまう、ということになります。
このブログでも「高IQすなわちギフテッド」という極めて時代遅れのギフテッド観について何度か記事を書いてますが、ギフテッドというフレームワークで子供や自分を理解していく時には、やはり「ギフテッドとは何か」の正しい理解をもって行っていくこと、そして、自分の使うフレームワークの妥当性を常に考えておくことが大切であると、今回の記事からは確認させて頂きました。
日本の環境でのギフテッドの生きづらさの調査が必要だよねという話
記事でもう一つ興味深かったのは、アメリカでの調査からは、ギフテッドであることが生きづらさと結びつきやすいことを示す証拠は薄く、ギフテッドと生きづらさを結びつける考え方自体が、アメリカのギフテッド教育・研究の現場において、全く主流ではない、ということでした。
しかし思ったのは、仮にギフテッドというものの本質が日米で全く変わらなかったとしても、アメリカと教育や文化の背景が全く違う日本においては、ギフテッドが生きづらさと強く結びつく可能性はあるのではないか、ということです。言い換えれば、アメリカでの研究結果が、日本のギフテッドにそのまま適用できるかという疑問です。
アメリカでは日本に比べると、あらゆる教育段階で、教育オプションも豊富であれば、システムもフレキシブルです。例えばホームスクーリングも認められているし、ギフテッド教育とは関係なく授業が習熟度別クラスになっているところが多いです。また、留年もあれば飛び級もあるし、一度就職してからまた学校に戻ってくるといった多様な進路選択も普通にある。
日本の教育システムのように、全員で足並みを揃えて進んでいくことが普通で、寄り道せず教育段階をストレートに上がっていくことが「良い」とされるような背景が、アメリカにはありません。ギフテッド教育の有無を抜きにしても、アメリカのシステムは日本のシステムよりもずっと多様性を受容するためのフレキシブルなシステムになっています。
従って、ギフテッドの生きづらさを考える場合、研究の結果もこうした日本とアメリカの教育・文化的違いを考慮して解釈する必要があるのではないかと思いました。
ギフテッドの特徴は高い能力と、その行動特性にもある
もう一つ、日本のギフテッドの生きづらさを考える上で考慮が必要なのではと感じたことは、ギフテッドの性格行動特性とその多様性についてです。
Mai C.さんの記事を読んで、アメリカのギフテッド教育では、ギフテッドとはハイアチーバ―のことなのかと感じた方ももしかしたらいるかもしれません。
もちろん、なんらかの高い成績(アチーブメント)につながる高い能力がギフテッドの基本的な特徴ではあるのですが、ではアメリカのギフテッド教育研究界が「ギフテッド=ハイアチーバー」だと考えているかと言えば、それは明らかにそうではないと思われます。
例えば、世界のギフテッド教育研究を牽引するRenzulli博士は、①ギフテッド教育が育成を目指すのは何かの分野で大なり小なり革新をもたらす人材であり、②学校やIQテストの成績が良いというのはギフテッドネスの必要条件かもしれないが十分条件ではなく、③そして革新や創造性を生みだすギフテッドネスの本質は「その行動(gifted behavior)」である、と書いています。
つまり、Renzulli博士の考えでは、ギフテッドは(結果的に)ハイアチーバ―で、かつ革新性や創造性につながる、それを生みだしやすい行動をとる人、ということになるのだと思います。こうした考えに基いたRenzulli博士の"Three-ring theory"が、ギフテッドというもののモデルとしてギフテッド教育研究の分野で広く受け入れられてきた事実を鑑みても、「ギフテッド=ハイアチーバー」という単純な理解がアメリカのギフテッド教育研究の主流ということは無いと考えられます。
また、もし「ギフテッド=ハイアチーバー」であれば、全米ギフテッド教育協会(NAGC: The National Association for Gifted Children)が公開している「ギフテッドの特徴」のリストにはこんな38もの項目は必要ないと考えられます。
www.nagc.org
このリストを見ると、その特徴の半分以上は性格と行動面での特徴になっています。そして、さらにその性格行動面での特徴を見ていくと、
「傷つきやすく感情面でのサポートを必要とする」
"Easily wounded, need for emotional support"
「普通ではない感情面での深さと強烈さ」
"Unusual emotional depth and intensity"
「態度や社会行動上の独立性」
"Independence in attitude and social behavior"
「カッとなる気性、特に失敗局面において」
"Volatile temper, especially related to perceptions of failure"
「多弁」
"Non-stop talking/chattering"
といったような、社会的不適応につながるかもしれないようなものも散見されます。そして、全てのギフテッドが同じ特徴を示すわけではないということも、このNAGCのウェブサイト各所で強調されています。
もちろん、多様性があるからといって、「同世代に比べて高い能力を示す存在である」という最もコンセンサスが得られていて研究証拠のあるギフテッドの特徴を外して議論するのは良くないことでしょう。
しかし、日本におけるギフテッドの生きづらさを考える上では、より画一的で多様性の受容に欠ける日本の環境で、生きづらさを抱えやすいタイプの性格行動特性を持ったギフテッドと、そうでないギフテッドの存在、そしてその割合といった、ギフテッドの多様性の問題もまた忘れてはいけないのではないかと感じました。
色々考えましたが・・・やはり日本とアメリカの社会・教育システムの大きな違いを考えると、日本におけるギフテッドの生きづらさの実態の把握には、今後日本でギフテッドの研究が進んでいく必要があるであろうと感じました。
ギフテッドの本質的定義と選抜方法は必ずしも同一ではない
ならばなぜ米国のギフテッドプログラムでハイアチーバ―が選抜されるケースが多いのかと思う人がいるかもしれませんが、それはRenzulli博士が上記のチャプターで書いてもいるように、高成績を生む能力がギフテッドの必要条件と考えられることと、プログラム参加者の選抜法として現実的に実施が容易だから、という理由が考えられます。このギフテッドの定義と選抜法の差異については、以下のギフテッドの定義に関する記事も、参考にして頂ければと思います。 www.giftedpower.net
最後に
まとまりのないことを書いてしまいましたが、ギフテッドという概念に関する議論は、この概念が日本の社会に正しく理解され浸透していく上で、必要不可欠なプロセスであろうと思います。ギフテッドに関する思考の糧となる素晴らしい問題提起をしてくださったMai C.さんに今一度感謝し、また今後もギフテッドに関する議論を通じてその社会への浸透が進んでいくことを願いながら、この記事を終わりにしたいと思います。